連休中、実家に帰った際、やたらに懐かしいものを発掘しました。
かつて自分が中学生だったころの、模擬試験の個人帳票……!
大事に保管しておいたというよりは、
当時しまったものがそのまま残っていたという感じ。
目を通すだけで、ぶわっ!!と甦ってくる、
受験生だった自分の、身につまされる思いがありました。
そうそう、受験生の冬、「最後の模試の1つ前」で
なかなか良い判定を出したんだっけ……
「最後の模試もちゃんと結果出して、弾みをつけなくちゃ!」
なんて力が入りすぎて、結果が最悪だったっけねえ……
コレのせいで受験校、最後の最後に迷う羽目になったっけねえ……
もう本当に遠い目です。
偏差値……合格可能性……数々の数字が痛い!
でも見つけてよかった。
おかげで、模試の威力を改めて痛感できました。
第1に、模試とは絶対に、何度も継続的に受けるべきものです。
そうしなければ価値・効果が激減するものです。
「ある程度力がついてから模試を受けた方がいいですか?」と
お尋ね頂くこともありますが、これは受験生にとって完全NG。
「力がついてから模試」ではなく、「模試を通じて力を養う」のです。
そしてその「力」は、単に学力・知識を指すのではありません。
試験中の時間配分。集中力。持久力。切り替えの速さ。
模試は総合力の鍛錬の場です。
また、単発で1、2回の模試を受けたところで、
自分の傾向は見えてきません。
単発だといくらでも逃げ口上を作れます。
たとえば結果が思わしくないとき、
「この日あまり体調が良くなかったから……」なんて。
その点、1ヶ月に1回ほどの頻度で受験をしていれば、
良くも悪くも自分の生の姿が浮き彫りになります。
「だってこの日は……」なんて言い訳も何もしようがない。
蓄積したデータを見れば明白です。
上限はこの辺り。下限はこの辺り。
上限を取れるのはこんなとき。下限に落ち込むのはこんなとき。
(ちなみに私が下限に落ち込むのは、
前述の通り『気合いを入れて力みすぎたとき』でした)
それが解ればこそ、対策を打てるのです。
自分の、受験生としての道のりの記録から、指針を読み取る。
それは、模試を積み重ねた者の特権です。
第2に、模試は自分を客観的に見せてくれます。
少なくとも、そのための材料を提示してくれます。
「自分なりに頑張りました!」
ある程度の自尊感情は大切ですが、
受験生はそれにしがみつくわけにはいきません。
だって自分がどれだけ自分なりに頑張ろうと、
他人もまた頑張っているのです。
頑張っている者同士が競い合う舞台で、
「自分なりの努力」を主張することに、
何の意味があるでしょう。
目を背けたくなるような数字もあります。
ときには心弾むアルファベットもあります。
結果はどうあれ、それがそのときの「客観的な自分」です。
夢も願望も全部取り払われた、ひたすらな現実。
直視し、受けとめ、次の一手を考え、実行する。
それはきっと、公式を使いこなしたり英作文を書いたりするよりも
よほど難しいことです。
しかしその力は、公式よりも英作文よりも、
間違いなく一生ものの財産です。
第3に、模試の効力を決定づけるのは、自分自身です。
いくら受験したって、自分にそれを活かすつもりがなければ、
何も活きません。
模試に向けて準備することもなく、
模試の最中にも何ら工夫せず、
間違えた分野を復習することもない。
これはただ「受けた」事実が残るだけの試験です。
受ける前、受けているその瞬間、受けた後。
自分の力を爆発させる方法を模索し続ける模試であれば、
それはどれほど自分を成長させてくれることか。
模試の価値は自分で作る。
だからこそ、私たち講師は、
受験生にその価値や意味を伝えねばなりません。
価値の生み出し方を、意味の読み取り方を、
責任を持って、伝えねばなりません。
今年も模擬試験の案内が始まりました。
模試はただの問題の集合ではなく
そして帳票はただの無味乾燥な数字、文字列ではなく、
子どもたち自身の養分となるべきものです。
全力で、そう育て上げるべきものです。
痛いほどの数字。
それを武器に変えられるのは、志ある挑戦者です。